2021年5月4日火曜日

手稲山を走った記憶

「走り屋」という言葉を聞かなくなって久しい。今、この言葉を口に出すのは恥ずかしいような気がするが、これが死語というものだろうか。

僕は1990年代前半、手稲山を幾度となく走った記憶がある。週末の夜は支笏湖が定番だったけど、僕は割と好きだった、手稲山。

あれから30年経った。今、あの道路はどうなっているのか、30年ぶりに訪れてみた。

下の写真は上りのスタートライン。ゴルフ場の駐車場だ。今更だけど、当時夜しか来たことなかったから、ここがゴルフ場だと知らなかった。

広い駐車場なので、Uターン待でコース上に渋滞するこもなかった。

上り折返し・スタート地点

下の写真は1コーナーの左直角コーナー。

1コーナー

1コーナー立ち上がりを上から撮影

1コーナーを立ち上がると、すぐ2コーナーのヘアピンに差し掛かる。ここから2連ヘアピンが始まる。まずは1つ目のヘアピン。

2コーナーヘアピン入り口

ヘアピンクリッピングあたり(上から)

ヘアピン立ち上がり、奥の3コーナー左ヘアピンが見える

2連ヘアピンを立ち上がると、右にゆるくカーブしながら急勾配を駆け上がり、ギャラリーコーナーに突入する。
ギャラリーコーナー
右の土手の上に車を止めてギャラリーしていた

ギャラリーはスキー場の駐車場なので、何台も車を止めることができた。
当時はコーナー途中の外側、この土手と路側帯のキワのところに電柱があり、そのおかげで下りスピンアウトしたら即激突→廃車となった方々をギャラリーから何度か拝めさせて頂いた。今はその電柱は無くなっている。
下の写真はギャラリーコーナーを上から撮影したところ。画面中央から右に続いている土手の上に車を止めてギャラリーしていた。
ギャラリーコーナーを上から撮影。駐車スペースがわかる
また、僕が走っていた頃はギャラリーコーナーに減速帯があった。今もギャラリーコーナーには減速帯が残っているが、果たして当時のものかどうかは分からない。
当時の減速帯は、凹んだ部分に黄色い斜線がペイントされていたと思ったけど、その痕跡を見つける事はできなかった。

ギャラリーコーナーの減速帯

当時からのものか分からない

路面はかなり古そうだが・・・

ギャラリーコーナー次の直角右コーナーを過ぎると間もなく冬の折返し地点の駐車場が見えてくる。冬はここで折り返していた。

ギャラリーコーナー次の直角右コーナー

冬の折返し地点

冬の折返し地点と駐車場(上から撮影)

冬の折返し地点を過ぎると左に緩いカーブが続く。
その先は上りでは最初がきつく、立ち上がりは緩い右の複合コーナーになっている。
冬の折返し地点を過ぎて緩い左カーブを登っていく

右の複合コーナー

複合コーナー上から撮影
複合コーナーを過ぎると、上の2連ヘアピンに差し掛かる。厳密には1つ目のコーナーはヘアピンじゃないんだけど、細かい事は気にしないでほしい。
1つ目のヘアピン進入

ヘアピン入り口

ヘアピン立ち上がり

2つ目ヘアピン進入

2つ目ヘアピン

2つ目ヘアピン立ち上がり
2つ目のヘアピンを立ち上がり、画像奥の右コーナーを駆け上がると間もなく下画像の折り返し地点だ。
下の画像では、奥から手前に登ってきて左の空スペースでUターンした。


折返し、下りスタート地点

下りのスタート、ヘッドライトに照らされた急カーブを示す黄色い反射板が印象に残っている。スタート直後からかなりの下り勾配だが、走り屋達はこの反射板に向かって臆せず飛び込んでいった。アンダーパワーの僕の車でもこのコーナーで速度超過ブザーが鳴った。
下り1コーナー
ここからだと路面が見えないほど急勾配だ

手稲山は市街に近い事もあって、週末はよく警察による通行止と検問が行われていた。しかし手稲山には軽川沿いからアクセスできるもう一つのルートがあり、みんなそこから手稲山に入って来てたのであまり意味はなかった。
検問では、違法改造でキップ切られてた人も少なからずいたが、僕の車は一見走り屋風には見えなかったので、お巡りさんからは「夜景ですか?すいません、今通行止めなんですよ」と言われて引き返すよう指示されるだけだった。
路面は全体的にかなり古く痛んでいたが、ここを走っていたのは今から30年前と考えると、痛んでいるとはいえ当時のアスファルトでは無い可能性が高いと思うが、果たしてどうだろうか。

2020年6月20日土曜日

豊平川河川敷にかつてあった北日本自動車学園

1990年春、僕が自動車免許を取得するのに通っていたのが「北日本自動車学園」。今はもう無い。
北日本自動車学園は、豊平川を渡る南7条大橋と幌平橋の間の河川敷に2つの教習コースを持つ、札幌では珍しい自動車学校だった。

1982年当時の航空写真(引用:国土地理院)
中島公園の真東に位置した北日本自動車学園

国土地理院の過去写真を見ると、2つあった教習コースのうち、1993年6月には上流側のコース(写真下側)が無くなっている。

1993年6月撮影(引用:国土地理院)

下流側のコースには教習車と思しき車がたくさん停まっているのが確認できるので、規模縮小しているものの、まだ経営しているようだ。
下流コースは2002年の過去写真まで写っており、2004年の写真では無くなっている。その時の跡地は綺麗に整地されているので、2004年より少し以前に閉校したのだろう。おそらく2003年頃だろうか。
2004年9月撮影(引用:国土地理院)


ちなみに北日本自動車学園より下流、南7条大橋のところにも札幌自動車学園という教習所があった。ここは1コースだけどコースが南7条大橋の下をくぐる変わった場所にあって、そのおかげかコースも大きかった。
しかし、この札幌自動車学園は1999年9月の過去写真で既に整地されつつあるところが写っているので、この頃に閉校したのだろう。

北日本自動車学園が閉校したのは、そのわずか4年後である。
1998年に長野オリンピックが開催され、2002年の日韓ワールドカップの開催が決まり、21世紀の幕開けとともに世の中は盛り上がっていたが、一方で長引く不況によりバブル時代の娯楽はすっかりシラケてしまい、進む少子高齢化も相まって若者の自動車離れが深刻化していったのである。
2008年現在の南7条大橋(写真上)から幌平橋付近までの豊平川河川敷
(引用:国土地理院)
下流コースと札幌自動車学園の敷地の一部はパークゴルフ場になっている

僕は2つあるコースのうち、上流側のコースで教習を受ける事になった。
一番最初の写真を見ると分かるが、上流コースは下流コースに比べて小さく、ほぼ正方形な形になっている。普通の教習コースに比べても随分と小さく、こんなの練習コースとして成立するのかな?なんて思った覚えがある。

さて、それはともかく、この上流コースに当たった人はコースまで350m歩かなくてはならない。ほぼ校舎の前に位置する下流コースの人と同じお金を払ってなんでこんなに歩かなくちゃいけないんだ!しかもコースが小さいから習得する技術のスキルに差が出てしまうかもしれない!とか思って下流コースの人を羨ましくも思っていた。

下の写真は、校舎を出て上流コースに向かう徒歩コースである。
ここは当時とそう変わらない。左のコンクリート壁の上は、豊平川堤防の上を走る一方通行の「豊平川通り」だ。
ここをひたすら歩いてコースに向かった

向こうにかすかに見える豊平川通りに登る階段まで、寒空の中、もくもくと教習生達は歩ったのである。

教習コースへ行くには、豊平川の堤防も兼ねている豊平川通りを渡る必要があった。ここは交通量が多いうえに信号が少ないため、車もスピードを出していたが、通りには教習生専用とも思える手押しの信号機が設置されていた。
その信号機は教習生がいなくなったた今でもちゃんと残っている。ここはマンションやアパートが多く、教習生が居なくとも河川敷を利用したい人が多いのだろう。
この階段を登って豊平川通りに出る

豊平川通りに出ると手押しの信号機がまだ残っている

豊平川通りを渡ると、当時は向かってすぐ左に教習コースへと降りるスロープがあった。そのスロープは路上練習の教習車がコースへと出入りするのに使われていた。僕たちはそのスロープ歩いて教習コースに向かった。
今はスロープがあったところは大々的に改修され、コンクリートの法面で覆われているので、当時を思わせる痕跡は何も無くなっている。唯一、この手押しの信号機だけが、かつてここを教習生が渡っていたという事を思い出させる構造物だ。

信号を渡るとガードレールが切れている部分がある。ちょうどこの辺りに河川敷に降りるスロープが付けられていたはずだ。
このガードレールの切れ目辺りからスロープがあった

そこから河川敷を見ると、駐車場と思われるアスファルトの敷地があるが、これは教習コースとは関係なく、コースが廃止されてから作られたものだ。
思わせぶりな駐車場だが、これは教習コース廃止後に作られたもの

かつて教習コースへのスロープがあった周辺一帯は、下の写真のように階段状のコンクリート法面に改修されている。
河川敷から見たコンクリート法面

上の写真、画面真ん中に先程渡った手押しの信号機が見える。かつては、手前のコンクリート法面の左上から右下に向かって斜めにスロープがあった。

現在の教習コース跡地は、下の写真のような微妙な遊具が点在する空き地のような公園になっている。奥に見えるのが幌平橋だ。
微妙な遊具のある公園
写真右手には現在のスロープが見えるが、これは教習コースのスロープとは別物だ。このスロープは、ここが整地された時に作られたもので、かつてのスロープより上流側にあり、歩行者・自転車用の通路も併設されている。

さて、ここから歩いて下流コースに向かう。
緑のネットに囲まれた敷地が見えてくるが、下流コースの跡地はパークゴルフ場になっている。
緑のネットに囲まれた辺りが下流コース
奥には豊平川を渡る南大橋が見える

南大橋からパークゴルフ場の全景が見渡せる。かつてはこの敷地一帯が北日本自動車学園の下流コースだった。
2020年現在の下流コース跡

上の写真右側には、パークゴルフ場へと続くスロープがあるが、これも教習所時代とは違うものだ。ただしこちらは上流コースと違い、豊平川通りに接続する地点はほぼ変わっていない。
当時の航空写真と現在の地図を重ね合わせたのが下の図だ。
豊平川通りからか河川敷コースに接続するスロープが確認できる。黒い線で表されているのが現在の道路の線形である。

上流コース(引用:国土地理院)
豊平川通りとの接続位置はほぼ変わっていない

現在のスロープ


下流コース豊平川通りとの接続位置
手押し信号のそばにあるのは現在も変わらない


こちらは上流コース。かつての教習所時代のスロープは、先の手押し信号のすぐ近くにあるが、現在のスロープはそれとは全く別物なのがわかる。

下流コース(引用:国土地理院)
接続位置はまったく違う

さらに、現在のスロープは歩行・自転車用が併設されている。

向こう側が歩行者・自転車専用、手前が車道だ
左が車道、右が歩行者・自転車専用


「止まれ」の標識がなんとも言えない

かつて通った北日本自動車学園跡地を巡ってみた。
これほど痕跡がなくなっているとは思わなかった。堤防の法面もいつのまにか綺麗に整備されていたんだなあ、と今更思った。
時代なので仕方ないが、最近はAT限定が普通でマニュアル取得者はすっかりマイノリティになってしまったようだ
マニュアル取得者がAT限定者にマウンティングしてたのも、もう昔の話。今そんな事したら痛い人扱いだから気をつけよう。


2020年6月12日金曜日

気づいたら清田のケンタッキー無くなってた

 2020年2月21日金曜日、帰りに車窓をぼーっと見ていた。

なんか175°とかいう新しい担々麺屋ができてるなー、紳士服のAOKIも別な店になってるし。そういえばこの変にマクドナルドあったよなー、大戸屋か餃子の王将どっちだっけ、とか思いにふけっていたら急に思い出した。

そういえば、清田交番の近くにケンタッキー無かったけ、最近見ないような、あれ?

と思って注意して見てたら、やっぱりケンタッキー無い!
あったよな、たしかケンタッキー。
そう思ってGoogleストリートビューで過去の画像見たら、清田整形の隣に確かにあった。
今は空き地で駐車場として利用してるっぽい。

いつ無くなった?
記憶にない。
毎朝この辺通ってるのに気づかなかった。

Googleストリートビューの過去画像見たら、2018年まである。
ほんの最近まであったんだ。
無くなったの知らなかった。

2010年当時

2019年現在

Earthの過去画像を調べてみると、2018年9月2日時点ではまだ建物は残っているが、同月20日には解体されている様子がわかる。
2018年9月2日時点
建物はまだ存在している
2019年9月20日
解体が始まっている

2020年4月10日現在
更地になっている
バブル期に一気に増えたファーストフード店。
こうしてまた一つ店が無くなると寂しいね。

手稲山を走った記憶

「走り屋」という言葉を聞かなくなって久しい。今、この言葉を口に出すのは恥ずかしいような気がするが、これが死語というものだろうか。 僕は1990年代前半、手稲山を幾度となく走った記憶がある。週末の夜は支笏湖が定番だったけど、僕は割と好きだった、手稲山。 あれから30年経った。今、あ...