2014年6月1日日曜日

滝野線の思い出~北海道道341号厚別滝野公園線 その2

通称滝野線の続き。その1はこちら→

滝野線旧道を確認できるもう1つの地点がこちら。
ちょっとわかりづらいが、下の画像の神社の鳥居マークのあるあたりのS字である(黄色が現道)。
出典:国土地理院ウェブサイト

下の写真は、有明小学校手前にあるS字コーナー跡で、走っているとほぼ直角に感じるほど滝野線で最もきついコーナーだった。
上の写真は、滝野公園側から札幌市街方面に向かって撮影したもの

現道の左側、今はブロックで覆われているあたりから旧道の橋は架けられていた(↑写真は札幌市街側)。

滝野公園側。白い新しいブロックが敷設され、旧橋の痕跡を確認することはできない。

札幌市街側から滝野公園方面を見た写真。
オーバースピードだと、奥に見える神社の鳥居にまっしぐらだ。

ここもなぜか新しくアスファルトを敷き直している。

このアスファルトが当時と同じ線形かどうか確かではないが、電信柱の位置がかつてここまで道路であったことを示している。

この時点では、この先有明小学校を過ぎたあたりで複線は終わり、従来の片側1車線へと戻る。その先のゆるいS字もそのうち新道に取って代わるだろう。

もう何十年も経っているのに、今でもはっきり思い出す。
ここにあった、あの路面、あのカーブ、あのギャップ。

全開で走り抜けたコーナー。
ヒリヒリするあの瞬間。
何が僕達をあれほど駆り立てたのか。

狂ったスピード。
一歩間違えれば死ぬかも知れない。
恐怖心がアドレナリンを分泌させる。
ゾクゾクするような、血液が沸騰するような、全てを忘れられる非日常的な。
それはやがて快楽にも似たような感覚になる。
これを覚えると、もう抜け出せない。
最高の快楽を求めて、また走り出す。

麻薬と同じ。

ただのジャンキー。

今はすすきので飲んでる方が楽しい。
すすきので飲む→お店で可愛い女の子と話す→脳内ドーパミン分泌→快楽→もう抜け出せない
あ、同じか。

滝野線の思い出~北海道道341号厚別滝野公園通

通称滝野線。
この言い方する人は、たぶん昔で言う”走り屋”か、それに近い人だと勝手に推測。
1990年代前半は、険しいカーブが続く峠道などの一般道をサーキットの如く猛スピードで走っていた”走り屋”の全盛期だったのではないだろうか。
頭文字Dの85乗り、樹君によると、カーブではなく”コーナー”である。
例「コーナーを攻める」

さて、80年代から90年代初頭、札幌近郊の走り屋のメッカと言えば支笏湖と言っていいと思う。
この滝野線は支笏湖へ続く道路で、当時は支笏湖へ向かう多くの走り屋達が走っていた。
その内、この滝野線”だけ”を走る、いわゆる秋名スピードスターズで言えば秋名山や真子ちゃんの碓氷峠のように、ここをホームグラウンドとする走り屋達が出てきた。
ちなみに、頭文字Dが連載開始されるずっと前の話である。

話が脱線してしまったが、2014年現在は片側2車線の新しい道路に改修されている。
かつて走り屋達が攻めたコーナーはほとんどが消滅し、線形の緩い安全なカーブになってしまったが、一部当時を思い出す旧道跡がまだ残っている。
市街から滝野公園に向かって真栄高校を過ぎ、里塚霊園へ続く急坂道の入り口にあった奥の深いコーナー跡。
滝野線ではめずらしいブラインドコーナーだったが、内側の山を削って新しい道路に代わっている。

なぜかアスファルトが新しく敷かれ、歩道も無くなっている。
当時の路面が残っていないのは残念だが、かつてここがあのブラインドコーナーであったのは間違いない。

少し進んだところ。
右の白い柵の内側が2車線化した現道。

滝野公園側のどん詰まり。

振り返ったところ。滝野公園側から札幌市街方面に向かって。

この擁壁はよく覚えている。

擁壁の縁(へり)。

下の画像は、1985年の航空写真と現道地図を重ね合わせたもの。
出典:国土地理院ウェブサイト
黄色い現道と旧道の違いが分かるだろうか。
旧道跡のほとんどは、アスファルトが剥がされ、痕跡を探すのが難しい状況であるが、もう1箇所、痕跡を確認できる場所があるので、「その2」にレポの内容を記載した。

北海道道341号厚別滝野公園通 その2へ







手稲山を走った記憶

「走り屋」という言葉を聞かなくなって久しい。今、この言葉を口に出すのは恥ずかしいような気がするが、これが死語というものだろうか。 僕は1990年代前半、手稲山を幾度となく走った記憶がある。週末の夜は支笏湖が定番だったけど、僕は割と好きだった、手稲山。 あれから30年経った。今、あ...